紹介 森 義信 さん(8期)随筆集 つくづく亭日常 

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随筆 つくづく亭日常 

初めに
 つくづく亭日常と称して書き綴った、つたない文がいつの間にか溜まってしまいました。世の中、先がみえませんが、それでも希望を持って毎日パソコンにむかい冊子にまとめてみました。
 書いた当時とは時代も変わり、自身の考えかたも少し違ってきましたが中身はそのままとしました。お名前が出たり、作家の文章をいただいたものもありますが、私家版ということでお許しをいただきたいと思います。
 それにしても、文句の多いつくづく亭だとあきれております。
 製本はシマウマフォトブックを使いました。Word文章をPDF化し、これを,JPEG(画像)に変換して貼り付けました。
                       令和2年7月27日   77歳 新型コロナウィルス大流行中の東京にて
    
つくづく亭日常 第2集 (2009~2014
第2集刊行によせて
第2集は2009年から2014年にわたる5年間の出来事を纏めました。2009年はサラリーマン生活に別れを告げ、一人親方として独立した年でした。
 その「森高圧ガス・サービス社」は気息奄々としながらも、2019年まで続きました。仕事におもいのこすことはありません。やり切りました。
 2011年3月、東日本大震災は、生涯に残る出来事でした。親友を亡くしましたし、政府の対応には限界を感じました。しかし日本人の和の精神のすばらしさも感じたとしだったのです。
 2014年には念願だった四国八十八か所歩き遍路に挑戦しました。今思えばこの時が最後のチャンスだったと分ります。やってよかったと思うのです。
 幸い体の方は元気です。これからもボケ防止と称し駄文を綴って皆様にお送りしたいと思っています。
                                            2021 令和3年1月    78歳 荻窪にて 森 義信
バックナンバー「へなへな遍路足摺を行く」と「自転車」はこちらをご覧下さい。
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西田小学校 
平成24(2012)年8月15日
 又8月15日がやってきた。終戦時数え4歳だったから玉音放送を知らないが、戦前生まれの欠食児童だったことは同世代共通の想いであろう。 私は昭和27年4月それまで住んだ立川市高松町3丁目119番地杉並区東荻町80番地に越し西田小学校4年生となった。「西田小学校」は当時の町名に由来し今年70周年を迎えた。同窓会会報をみると町名の変遷がわかる。明治13年(1880年)測量の古い地図で荻窪、西田、成宗、田端地域は下荻窪村、田端村、成宗村とある。この3村は江戸初期から続いた古い村であった。

明治29年、大正13年2回の合併吸収により杉並地域は杉並町、和田堀町、高井戸町に集約されたが、昭和7年杉並区が誕生。田端地区は東京都杉並区西田町となった。田端村の飛び地であった所が東田町となり間が成宗町である。

荻窪は西田町の北側に在り、挟まれた小区画に東荻町がチョコンとある。東荻町は全部で100番地ほどで米粒形をしていた。昭和39年住居表示制度実施により、東荻、西田、という由緒ある地名は消え、荻窪に統一された。しかも境界線も変えて、荻窪1~5丁目に細分化され、往時のエリアを確認するのは不可能というからまことに残念である。西田小学校の創立は昭和17年6月1日で、まったく私の年と同じである。桃井第二小学校、杉並第二小学校からの生徒450名をもって発足したとある。
写真 西田小学校

しかし新校舎は昭和20年5月25、26日の空襲で焼失、バラック校舎が出来たのは昭和22年7月であった。私が授業を受けたのはこのバラックで、校舎が足りず2部授業、野外教室もあった。ただ校庭は広かった。野球場とサッカー場が従来の校庭の脇に造成されたのだ。当時サッカーをやった小学生はあまりいないのではなかろうか。指導されたのは高等師範出のスポーツマン岸上修先生だった。先生は川南(今の環8)通りの自転車屋の奥に住まいし、ガキ共のたまり場になっていた。偶然だが、石神井高校で山旅の深淵を教えて頂いた黒崎峻先生も高等師範ご出身だった。同級のSはその隣の小鳥屋に見せられて鳥育てに夢中になった挙句、校舎の屋根にあがり雀の巣を取ろうとして大騒ぎになった。のちにその小鳥屋の娘と結婚したと聞き唖然としたことだった。
 転校生であったゆえか、いじめにもあった。相手は地元名士の息子で徒党を組んでいたからどうしようもない。一人で下校の際を狙われ投げ飛ばされたことがあった。そういうことは一生忘れないものである。いじめは無くならないし止めようもない事を、今の家庭、教育現場は肝に銘じるべきで「無くすのではなく、有るを前提とすべき」と思う。

小学校は善福寺川河岸段丘の上にあり東側の下がった所には広大な「西田のたんぼ」だった。その後西田田んぼは「荻窪団地」となり、周辺に商店街もできた。今団地は取り壊され往時の面影を再現させている。往時をみるなら今しかない。田んぼの周りでは、ザリガニや子魚、亀と遊んだ。河岸段丘の畑地だ「土器」を掘りあてるのも楽しみであった。校庭から、運動会用のごみ穴を掘った所、高さ1 mを超える甕が出土し先生方も大興奮。古代史が好きなのはその時のアドレナリンのおかげだ。
写真 西田たんぼがあった荻窪団地跡地 奥が荻窪駅方面

私が引っ越してきた家は元退役陸軍少将「I」氏の邸であった。スレート葺き屋根が珍しく、屋根に乗っては怒られた。いまでも庭を掘るとスレート片がたくさん出てくる。少将閣下の名残が懐かしい。家の前、春日通り(現、荻外荘通り)を挟んで向かいは「NHK社宅」だった。2階建モルタル仕上げで当時そのような建物は病院位だったから、今でいえば「億ション」的存在で、「宮田輝アナウンサー」「河原アナウンサー」の他「子供の科学」執筆者の方などが住まいしていた。何よりすごかったのは社宅に「テレビ」があったことで、「シャープ」「ゼネラル」等で極初期の放送を見させてあただいた。
写真 NHK社宅の有った場所、今はマンションになっている。

NHK社宅の右側が「荻外荘」近衛文麿邸の裏門だった。引っ越してきた当時未だ衛兵用の監視ボックスが残っていた。しかし表門への通路はガキ共にとって冒険の一つだった。うまく通り抜ければ「西田たんぼ」への近道で近衛邸の広大な池から田んぼへ逃げ出す「子魚」を捕まえるのが小学生最大の自慢なのであった。
写真 荻外荘北門

戦時記録にしばしば登場する「荻外荘」は今忘れ去られているように見える。しかし、歴史を変え、日本人の運命を変えたこの場所こそ後世に残すべき遺産ではないだろうか。歴史が変わったその時は、昭和16年10月12日近衛50歳の誕生日。荻外荘表玄関ピロ
ティーをくぐったのは企画院総裁・鈴木貞一、陸将・東条英機、海将・及川古志郎、外相・豊田貞次郎の4人。近衛は切り出す。「本日は帝国の現状に鑑み、対米国との和戦をどう決着するか、最終案を検討願いたい」近衛は対米交渉を継続すると決したかった。しかし頼みの海将及川は態度を明らかにせず、近衛に下駄を預けるかのように煮え切らなかった。
中国駐兵問題をどうするかに問題は集約された。陸将東条は撤兵絶対反対で譲らず、外相豊田は陸軍が一歩も譲らぬなら交渉見込みなしと答弁する。最後に東条の声は一段と大きくなった。「9月6日の御前会議で外交交渉の見込み無ければ、開戦を決意すると決定したではないか。この会議に総理(近衛)も出席されたのだから、責任を取れぬとは理解できかねる」近衛を無責任と罵倒したのである。

二時から始まった会議であったが十月の半ばの陽はすでに落ち、善福寺川の川面もすっかり闇に溶け込んでみえた。会議が終わったのは六時を回ったころ。東条陸将は最後の台詞を言い終わるや椅子を激しく引きそのまま荻外荘を後にした。
「近衛家七つの謎」工藤美代子 PHP研究所より抜粋

翌13日近衛はなお交渉を続ける。海将に期待したのだ。しかし首相一任という答弁は変わらなかった。さらに14日東条と直接交渉するも「性格の相違、清水の舞台から飛び降りることも必要だ」との言葉に、「責任ある地位にあるものとしてそんなことは出来ない」それが近衛首相最後の矜持となる。その日の閣議で東条は、内閣の存続は最早困難と述べ、閣議は散会した。17日東条英機に大命降下。木戸内大臣が陛下に「東条は戦争はやらない」とミスリードした可能性はぬぐえないと前期本にある。木戸内大臣の動きは終戦後まで続いた。きわめて不可思議な動きをしたようで正に歴史の闇である。荻外荘はテキガイソウと読む。当時の住
所は東京都杉並区西田町一丁目七四三番地。

西田小学校のPTA会長は「恩地孝四郎」画伯だった。四角に三角を組み合わせた校章は画伯のデザインで校歌も作詞された。私の弟は画伯の息子さんの絵画教室へ通い、幼い弟子となった。弟の同級に朝永振一郎博士の長男がおり、博士は恩地先生の次のPTA会長となられた。どうも恐れ多い方々が西田小学校を護ってくれていたのだ。しかるに不肖のガキは無役で無聊をかこっている。恥ずかしいかぎり。

今年も暑い8月15日 蝉鳴く トマトを少し収穫
写真 恩地孝四郎邸
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