紹介 池谷 キワ子さん(4期)山からのたより、養沢で林業とともに

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池谷 キワ子 さん(4期)は、2022年5月、”みどりの文化賞”を受賞されました。


江戸時代まで、多摩の林業は薪炭製造が主目的で、萌芽更新により15年ほどで再収穫できるコナラやクヌギ、クリの広葉樹が中心でした。しかし明 治になると、収穫にさらに時間がかかっても材価の大きい針葉樹のスギ・ ヒノキへと変わって行きます。        

 しかしスギ ヒノキは利用可能になるのに当 時でも30年40かけてやっと商品になります。戦後は家の普請需要があり一 時林業は活況を呈し、国をあげて緑化を奨励したのでした。が昭和30年 代にはエネルギー革命で燃料として使われなくなったためと輸入丸太の関 税撤廃もあり、安い外材との競争に勝てなくなり林業は衰退一途となります。 あらたに工場で作られる新建材や家づくりの工法の変化もあって木材の需 要は減り、いまでは伐採まで70年ほどかかる林業は、未来の姿を確認でき にくくなりました。そのため森林所有者の林業への意欲は減退するばかり、 育て上がるまでにかかる沢山の手入れが滞って荒れた林地が多くなりまし た。これでは森林の数ある環境への貢献も期待できなくなってきます。
 
池谷キワ子さんは、40歳のころ、東京都西多摩郡でご先祖代々江戸時代から 守ってきた185ヘクタールの山林を40才ごろに継承、自然災害、低迷する 木材市況に耐えながら作業にはボランティアも募って家業を守ってきまし た。池谷さんを支えたのは、森林、自然への尊敬、先祖への使命感でしょう か。

 近年、ようやく“地球温暖化”は人類、地球を破滅に導く、との危機意識が 市民にも広がり、池谷さんの森林の育成保全努力にさらなるボランティアの 協力がえられるようになりましたが、経済的には非常に脆弱といいます。森 林の恵みを子孫につなげるには、多くの市民の理解と協力が必要です。
 
2022年5月7日、池谷さんは、“国土推進緑化機構(*)”により第31回“み どりの文化賞”を受賞されました。心よりお祝いを申しあげるとともに、池 谷さんの足跡の一端をご紹介します。

 (*)1947年、荒廃した国土の回復を目途に発足した“森林愛護連盟”を2011年に改 称。全国植樹祭、緑の募金などを主催する国土緑化運動の推進団体。

はじめに

 この度同窓会ニュースに書かせていただくことになりました池谷キワ子です。まず松渓中学との関わりについて少し述べたいと思います。

 本校には昭和285月から293月まで中学3年生の時に在籍しました。生まれ育った西多摩郡小宮村(当時)が通学に大変不便な山村だったので、杉並区西田町の叔母の家に居候をすることになったからです。それまでは小学校1年から4年まで小宮村養沢の小宮国民学校養沢分教場に通い、ついで小宮本校に56年、小宮中学校に3年生の4月まで通学してきました。

 松渓中学に転校してみると、田舎育ちにとってはすべてが垢抜けて見えて大層引け目を感じました。叔母の家は当時西田町の広い畑のほとりで、松渓中はその反対側にあり、畑を貫く道をまわって通学しました。連れだって通ってくれた「aさんsさん」のふたりは洋画の大フアン。雑誌「スクリーン」を愛読していて、ハリウッドのスターを片っ端から話題にするのです。だから映画は全然みていなかったのに当時の大勢の洋画俳優の名前がいまでも記憶に鮮明です。クラスは3B組で数学の茂木久子先生が受け持ちでした。方言がいっぱいだった田舎出の15歳は、すべてに気後れがして、クラスにもあまり溶け込めず卒業してしまったように思います。「農業」を田舎で学んでいたので、商業の「貸し方借り方」の意味がさっぱりわからずでしたし、文法は口語の名詞助詞までしか教わっていなくて、「文語の下二段活用の下二とは何?」なのでした。英語ではつい「be動詞ってなんですか」と質問してしまい、「そんなことも知らないの」と白石先生が目を剝いたのが忘れられません。

 卒業以来一度も訪れなかった母校でしたが、数年前に65年ぶりに同窓会を訪問するチャンスがあり、それがこの稿を掲載していただくきっかけになったのでした。


“山からのたより 養沢(ようさわ)で林業とともに”(2020年4月、(株)清水工房より出版のエッセイ集、あとがきです)

                            養沢本須集落              養沢川の晩秋 
家業である林業を継いでいこうと、父に弟子入りしたのは40年前です。 養沢と檜原村に185 ha(町歩)の森林がありすべてを自身で管理運営してき た専業林家でした。
 
住まいの世田谷から15年、調布に引っ越してから25 年、車であきる野市養沢に通ってきました。ほぼ週3日、今では週1,2日、 おにぎりとお惣菜、ボトルにお茶を詰めて1時間余りの行程です。帰路は夕 食作りのため6時に帰り着くのが目標で、いつもアクセルを加速していまし た。 養沢の実家で迎えてくれた父母妹でしたが、いまではだれもいなくなって しまいました。足繁く養沢の山に通うにあたり、夫、息子、娘にもずいぶん 協力をもらってきました。それでも地元に住むのと違って通勤に時間がかか り、我が林業は思うように活動時間がとれず、目指す方向になかなか進めま せんでした。
 
林業に手を染めた当時は、我が家に限らずどこの人工林も手入 れ不足が目立ち、林内が荒れて林床が暗く、所有者から見放されている林地 が多くありました。それを知った森林ボランティア団体が1986年の大雪害 ごろ、いち早く多摩地域で誕生。当時は私もかなり意気込んでいて、我が家 の山に林業体験イベントを受け入れたりし、東京の山すべてを元気にしたい、 良い状態で子孫に引き継いでいかなくては、と呼びかけてきました。 その後、林業行政の働きかけで間伐が進み、荒れた山がかなり整備され、 森林の役割認識も市民に浸透してきたのでした。けれども養沢に限っていえ ば、共有林が多いため、森林に手を入れにくい状況にあります。 林業不況は出口の見えない長いトンネルと言われてきました。
 1955(昭 和30)年には94.5%だった国産材シェアは安い外材に押されて平成半ばには 18%まで下がりました。今では36%まで回復しています。丸太の値段は、多 摩木材センターでスギが1m3、1万円、ヒノキもせいぜい3割増しといった ところです。柱適寸ほどのスギ4m材、丸太が1本1,000円余なのです。山 からの伐採般出と製材流通コストも日本では山の険しさや小規模林地のため 材価に比してとても高値で、林家に代金が戻ってくるどころではありません。 半世紀以上にわたる育林コストがほとんど回収できないのです。 そのような状況のなかで、林業本場地域の規模も大きい林家を中心に結 成している日本林業経営者協会に入り林業への姿勢を学べたのはあ りが たいことでした。この会やボランティアの人々を介して、井の中の蛙であった私が、多くの同業者の先輩たちに出会い、たくさん学ぶことが出来たと思います。また、身近なところで結成された「東京の木で家を作る会」では、木が家になるまでを扱う人たちがすべてメンバーに揃っていました。木を育てても、山から伐りだす素材生産業、製材、建築家、工務店、家具や器の制作者、数多い木を扱う技術者との連携がないと、センス良い木製品や日本文化を体現するような家は造れないのです。おかげでこうした木材技術を伝承発展させようという人々とも会を通じて顔見知りになれました。

        我が家の門と蔵                ボランティアのみなさん                林内を見回る
 この本を編集する際にいろいろと検討したのですが、結局掲載する文章は、私の書いたものだけに絞ることになりました。家族のことも触れませんでしたが、父の林業からは、自然界や人間への限りない謙虚さと愛情を持つことを教えられました。将来、我が家の山林は息子と娘に託すことにしています。
 
今の時代、森林所有者は存在しても山林はみんなの者という意識が大きくなったこともあって、地元の山作業員や森林ボランティアには、たくさんの汗を養沢の山にそそいでもらってきました。林業が持続可能であるために、これからは息子達のように他に仕事を抱えた森林所有者がまとまり、集約して山を施業保全する組織に委ねていくのがいいと思っています。林業は今まで男性中心の仕事でしたが、世代を跨いで受け継いでいくところは女性にも向いています。「経済性を考えなければ、こんな気分のいい仕事はない」と思える林業です。山の整備保全は、どんなタイプの森林でも絶対必要です。林業が若者にとって魅力的な天職と感じてもらえる環境になってほしいものです。
 
出版準備をしていた2019(令和元)年10月、連続してやってきた台風で大災害が発生しました。台風19号では、奥多摩地域でも短時間に大雨が降ったため、林内の小さい沢や養沢川の岸が崩れました。文中に登場している井戸入り沢も削られ、土砂が堆積し、すっかり様変わりしました。ワサビ千枚田も、涼やかな井戸入り沢も、瞼に残るだけの場所になってしまいました。そらあけの会では、早速沢沿いの道を補修新設し始めています。本文でも触れていますが、激甚災害となった1986(昭和61)年の大雪害のときも、今度の台風でも、温暖化を食い止めなければ未来世代の人々の幸せはないと痛感させられました。
 
自然は懐が深く、なかなかほころびを見せてくれないはずなのにこれだけ異常気象が現われるのは、地球はもう取り返しのつかないほど末期的なのかもしれません。温暖化の事を思うと日常の利便性はさておき、「あえて」の回り道を選択するのが必要なときなのでしょう。政府や企業の選択ばかりでなく、一人一人の自覚に大きくかかわっているのです。また、山の方向性は少しずつです。世の中の急激な変化に弱者が追いつけないように、1年に1mmほどの年輪しか育たない樹木を生産する林業は、ゆっくり目指す形に持って行く、生育途中で樹種を植え替えたりせず、木の命をまっとうさせたいのです。たとえば、山頂付近は災害を受けにくい広葉樹林に、住まいの周りは実がなり、花が咲き、春秋に彩りがある樹種を、中腹や谷筋の肥沃で作業路造りの可能な林地には林業として役立つものを林齢が平準化するように育て、岩地や痩せ地は自然発生に任せる。そういう山の姿を時間かけて、時代に合わせて修正をしながら一歩ずつ進みたいと思うのです。
 私は「身土不二」をもじって「森都不二」と唱え、都の人は森や自然と切り離されたら、
心身の健康は得られないのだと確信しています。

“幼樹のうちは手がかかる”

      やぶの整地                      スギの植林                         枝打講習
 養沢では見える山々のほとんどがスギ・ヒノキの人工林の 濃い緑に覆われています。 江戸時代に炭市の裁判に負けたのがきっかけで、周辺より一歩早く人 工林を手掛け、さらに戦後の拡大造林ブームが広がったからです。 今回の「養沢だより」は、そうした山を育てる仕事の紹介です。 育林は日本各地で方法に大差があり、樹種、伐期の樹齢、作業の内容 や呼び名は、みんな違っています。ここに書くのは養沢流のやり方で す。

 冬の仕事は「地拵(じごしら)え」で、伐採のすぐ翌春に植林できるよう整地し ます。夏を越すと草木が繁茂してしまいます。最近は根本に近い幹の 部分だけしか山から運び出しませんから、すべての木を伐り払った皆 伐跡地は、枝や梢が散乱して足の踏み場もない状態です。薪にするに はもってこいの太い枝ですが、放置しているのは運び出す費用のほう が高くつくからです。それらのすべてを一カ所に集積して土の面を広 げ、植える場所を確保する地拵えは、長い棒を使って地を覆っている ものを斜面下方に向かって絨毯を巻くように斜面を転がしていきます。 これが「巻き落とし」と呼ぶ仕事です。
 
春は「植え付け」です。「遠山に雪」と言われ、山頭に残雪の見える3月中旬が時期です。苗畑で尺五(45cm)に育ったスギ・ヒノキの実生苗は当日の早朝に苗屋さんから届き、大事に菰(こも)に包んだまま 新植地へ運びあげます。1haに3千本植えで、1坪1本です。湿潤な地にはスギを、乾いた中腹あたりはヒノキを、標高に沿って横並びに、根を乾かさないよう素早く植えていきます。
 
植林後はひたすら雨待です。幼樹の7年生までは毎夏に1、2回、苗の周囲の雑草を「下刈り」します。日陰ひとつない林地で大鎌を振り回すと、首に巻いた手ぬぐいが搾れるほどの汗となります。ところがこの仕事を、まだ薄暗い時間に行なって露に濡れた草をばりばり刈るのはさわやかです。私は養沢の山がもっともすばらしいのは、盛夏の早朝、夜のとばり が去り、山頂から黄金の日差しが下りてくるときだと知ったのでした。

  樹齢7年生を過ぎ、木々が鬱閉(うっぺい)してからの下刈りは「大刈」と呼び、灌木伐りや木に巻き付く蔓も伐ります。20年あまり前から、長柄の動力機、刈払機がプロの下刈りに使われています。私自身は、庭周りに重宝しているだけで、足場の悪い山斜面ではほとんど使っていません。ボランティアが使うのも長い鎌です。山仕事の作家、宇江敏勝氏が「この機械は思考を停止させてしまう」と書いていました。チェンソーも同様で、作動すると音が激しく、能率と引き換えに人が機械の一部に組み込まれてしますかのようです。けれども、育林の分野は、鎌、鋸、鉈、斧といった手道具もまだ多く使われていて、これだと、鳥のさえずり、沢の水音、飛び交う蝶やトンボ、朽木を占領する虫、群生する野の花、といった山の仲間たちに囲まれながら自分のペースで作業ができるのです。一息いれて鎌研など道具の手入れをするとき、谷からの風を受けて仕事仲間とはかどった林内を眺める気分は爽快です。(「グリーンパワー」2013年9月号)

“人の手が加わることで良質な材となる”
 
 
     明治初年に植えた杉               枝打                 養沢川の夏
 養沢集落でやってきた昔からの山仕事を続いて紹介しましょう。ボランティアの男性はだれもが「伐りたがりや」さん です。木を伐ることは人類が黎明期からやってきたことだからでしょうか。木が水を揚げない秋から冬が伐採の適期です。「間伐」は、成長の遅れた木、肥大しすぎた木、曲がりや素性のよくない木を間引きして、残った木にしっかり養分をま わします。育ちあがるまで一度に20~30%の本数をチェンソーを使って伐っていきます。このごろはずっと間伐材を林内 に捨て置く「切り捨て間伐」ばかりだったのですが、最近では行政の指導で間伐木の出材が進められているところです。

一方、「皆伐」は出荷の樹齢となった60年ほどで素材生産業者に伐採を任せます。これを「立木(りゅうぼく)売り」といい、林内に 生えている木を業者に売り渡すのです。作業路の少ない養沢では、山頂から道路脇の土場まで架線を張り、4mに切った材 をケーブル伝いにおろすやり方をしています。立木を買い取る業者と父がそろばん片手に売買にしのぎを削る場面にずっ と立ち会ってきました。毎木(まいぼく)調査をしても、実際この林分に販売材積がとれほどあり、材積単価(一石又は一立(りゅう)米(べい))はいまの相場でどれくらいか、立木だと見極めにくく、私はこの価格算出に苦慮してきました。ここしばらく材価下落で売るに売れない現状となり、 立木売りをストップしています。
 
撫育(ぶいく)仕事の華は「枝打ち」です。やはり秋冬にやります。枝打ちは作業のコスト高もあり敬遠されていますが、自然落枝しにくいヒノキではぜひ続けたい作業です。元口(丸太の根本に近い方)と末口(梢に近い方)とが差が少ない、年輪幅の密な、堅牢な材になります。私はだいた い樹齢9年と13年にやり、20年ごろにも少しやっています。養沢では枝打ちを「そらあけ」とも呼び、林床に日が入り、下草が表土を守るようになります。「そらあけの会」の命名の由来です。ユウさんらが斧で「コ ンコン」と枝を落とす音は林内に心地よく響きましたが、このごろボランティアは枝打ち鋸を使っています。いつも林地の見回りは欠かせず、風害、雪害、山崩れにはすぐ面倒を見てやる、特に雪害を受けた幼樹の「雪起こし」は手がかかります。
 
樹木はほとんど自然の力だけで育ちますが、適時に人の手が加わることで、初めて良質の材となり、人の役に立つようになります。そして林内が整備され、よい環境づくりもはたしてくれます。人工林の手入れとして、地拵え、植え付け、下刈り、枝打ち、間伐、雪起こし、皆伐を紹介してきましたが、これらの作業は急斜面や岩場が多いこの辺りの山では、熟練したプロの手がどうしても必要です。雑山(ぞうやま)と呼ばれる天然林でも、養沢では薪炭林、屋根葺きの萱場だったものの利用がされなくなった二次林なので、環境、景観、生物多様性維持の観点からも整備が必要です。

山をより良くするためには、市民との橋渡し役であるボランティアの充実ばかりでなく、山仕事のプロがもっと増えてほしいです。そして彼ら若者のキャリアの向上と、未来を描ける生活の安定が望まれるところです。(「グリーンパワー」2013年10月号)

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